優秀な翻訳者と聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか?
高い水準での原文読解力や文章表現力、豊富な専門知識、訳すスピードの速さ、納期の遵守など、優秀な翻訳者の条件として、こうしたスキルや姿勢は必須であることは間違いありません。
ところで、意外と見落とされていると感じる条件の一つが「申し送りのうまさ」です。
「申し送り」とは、不明な点や気になる点を、次の工程を担当するチェッカーに伝えること。ただの連絡だと思われがちですが、そんなことはありません。それどころか要点をとらえた申し送りは、訳文の品質向上に不可欠です。
適切な申し送りがあれば、チェッカーは優先的に確認すべきポイントを把握できます。必要に応じてクライアントに問い合わせたり、別のリソースにあたったりすることもでき、結果として訳文の品質は向上します。
とはいえ、多ければ多いほどいいというものでもないのが、申し送りの難しさ。
この記事では、優秀な翻訳者さんの申し送りにみる、理想的な「申し送り」について考えてみます。
申し送りの目的は「翻訳文の品質向上」
先ほども書いたとおり、申し送りは翻訳者が翻訳するなかで気になった点や理解できなかった点を、チェッカーに伝えることを言います。
なぜ不明な点や気になる点を伝えるのか。それは、そうした方が翻訳の品質向上につながるからに他なりません。つまり、申し送りは「翻訳の品質を上げるため」にあり、なんでもかんでも書けばいいというわけではありません。
多くの場合、翻訳中に出会った「翻訳者が解決できなかったこと」を申し送りとして書きます。チェッカーは翻訳者が解決できなかったことを、別の角度から調べたり、ソース言語(原文)のネイティブに確認したり、クライアントに問い合わせたりして、解決に導こうとします。
優秀な翻訳者さんの申し送りをみると、書いてあるのは解決できなかったことだけに限りません。
たとえば、事実確認に使用したWebサイトのURLが記載してあります。この情報はチェック工程で非常に役に立ちます。
また、原文の解釈に応じた複数の訳文を提案してくれたりすることもあります。こうした提案は、スムーズな納品につながります。
「翻訳の品質を上げるため」という目的を見据えたうえで、翻訳プロセスやクライアントにとってメリットのある内容を記載してくれているのです。
翻訳プロセスやクライアントにとってのメリットという観点から考えると、申し送りすべき事項が具体的にみえてきます。
申し送り事項
実際に申し送りすべき事項は、クライアントのニーズや案件の性質によって異なることがありますが、ここでは一般的に必要とされる申し送り事項について、具体的にみていきます。
固有名詞の定訳に対するエビデンス
会社名や部署名などの組織名、商品名、個人名、法律名、地名、スローガン、キャッチコピーなどなど、実務翻訳ではたくさんの固有名詞が登場します。
そうした固有名詞の訳出においては、公式な訳語だと判断した際のエビデンスを申し送ります。
内容は公式サイトのURLや、文書リンク先のURLで十分です。これがあるだけで、チェック工程はスムーズに進みます。
定訳がなかった場合の「仮訳」の明記
必ずしも正式な訳語が見つからない場合があります。その際は仮訳であることを明記します。チェック工程でも見つけられなかった場合、クライアントの確認を促すため、チェッカーは「仮訳」の申し送りをクライアント宛てに残します。
原文解釈の不明点
解釈における不明点や理解が不安な箇所については、正直にその旨を伝えます。そうすることによってチェック工程で重点的にその箇所を見ることができ、品質の低下を防ぐことができます。
原文が解釈できなかったのに無理やり訳文をつくり上げ、申し送りなく提出する翻訳者さんもまれにいます。チェック工程でそういう箇所を発見してしまうと、全体の意味をきちんととらえられているのか、非常に不安になります(そして経験上、その不安は的中することが多いです・・・)。
また、精度の低い原文を翻訳しなければならない場合など、ある程度の申し送りが想定される案件にもかかわらず、まったく申し送りがなかったりすると、それも不安になります(そして経験上、その不安は的中することが・・・)。
優秀な翻訳者さんほど、わからないことは「わからない」と正直に申し送りしてくれます。
複数の解釈ができる文章に対する代案
原文の誤りや不備、曖昧さに起因して、複数の解釈ができる場合があります。
クライアントに確認してから訳を確定していてはそれだけ時間がかかるので、「文脈からAと判断。ただしBならば訳文は・・・」と、それぞれの解釈に合わせた訳文を申し送りします。
そうすることで翻訳プロセス全体にかかる時間を短縮できます。
原文の誤りの指摘と証拠の提示
翻訳をしていると、明らかに事実と異なっている内容を原文に見つけることがあります。見つけた場合は、誤っていると判断したエビデンス(参考資料のページ数や記載内容)を申し送りし、クライアント(執筆者)に確認してもらいます。
そうすることで、訳文が事実に即したものになり、原文の品質向上にもつながります。
申し送りは大切なコミュニケーション
翻訳者にとって、「申し送り」は自分がつくる訳文の品質向上に「直接的」に関わることではなく、次工程以降で「間接的」に活かされるものです。
そのためか、翻訳者の立場からみた優秀な翻訳者の条件に「申し送りのうまさ」が挙げられることは少ないように思います。
一方で、冒頭でお伝えしたとおり、要点をとらえた申し送りは訳文の品質向上に不可欠です。
そうした申し送りができる翻訳者さんは、チェッカーやクライアント対応の担当者にとって、とても心強い存在です。
翻訳はその実務こそ一人でやるもの。ですが、訳文がつくられるプロセスには、翻訳者以外にも、執筆者またはクライアント、チェッカー、コーディネーター、営業担当者など、実に多くの人が関わっています。
申し送りは、翻訳者の考えを翻訳プロセスの関係者に共有するための、大切なコミュニケーションです。申し送りによる共有をきっかけに、翻訳者とその他のメンバーは品質向上に向けて連携することができるのです。
執筆:田村嘉朗
大手通信会社ロンドン支社勤務を経て、2013年より翻訳者として活動
専門は通信、マーケティング