2022年の2月17日、チリの先住民族「ヤーガン族」の女性が亡くなりました1)。
亡くなったクリスティナ・カルデロンさんは国が認める最後の純血のヤーガン族であり、民族独自の言語「ヤーガン語」の最後の話者でもありました。
話者がいなくなれば、その言語は消滅します2)。彼女が亡くなったこの日に、ヤーガン語は世界から消滅したことになります。
消えゆく言語
言語の消滅は、驚くべきことにそれほど稀なことではありません。
少数言語研究団体であるSILインターナショナルの発表によると、2022年2月時点での世界の言語数は7,1513)であり、2021年2月からの1年間で4言語が消滅したとしています4)。
また国際連合教育科学文化機関(UNESCO)が2010年に発表した『Atlas of the World’s Languages in Danger』は、1950年から2010年までの間に230もの言語が消滅したと報告しています5)。
言語消滅の流れは、未来に向けてさらに加速しつつあります。
世界経済フォーラムによると、2018年2月の時点で、話者数が100~999人しかいない言語は1000超、10~99人しかいない言語は300超、9人以下となっている言語が114あります6)。
いくつかの予測によれば今世紀末までに世界の言語数は今の約半分になるとされ7)、悲観的には90%もの言語が消滅する8)とも考えられています。
なぜ言語は消滅するのか?
言語はなぜ消滅してしまうのでしょうか。なぜ話者が途絶えてしまうのでしょうか。
言語学の学術団体であるアメリカ言語学会(Linguistic Society of America: LSA)は、これまで数々の言語が消滅してきた主な理由として、以下の2つを挙げています9)。
1) Outright genocide(試訳:侵略などによって民族が虐殺され話者が絶滅したとき)
2) When a community finds itself under pressure to integrate with a larger or more powerful group(試訳:あるコミュニティーが、より大きな、あるいはより強力なグループと統合する必要に迫られたとき)
現在の言語消滅は、主に後者の理由によるものと考えていいでしょう。
話者数の少ない言語(以下「少数言語」)のコミュニティーは、植民地化の危機に晒されたり、グローバリゼーションや都市部への人口集中が進行したりすることで、より話者数が多い言語(以下「主流言語」)のグループと統合する必要に迫られます。
そこでは、少数言語の話者は主流言語が使えなければ学校教育を受けることができず、就業機会も得ることができません。主流言語の習得が経済的な成功の基盤になり、好むと好まざるにかかわらず、次世代には主流言語の使用を促すようになります。
さらに、主流言語で情報発信するマスメディアの存在が、彼らに社会文化的な側面から主流言語獲得の必要を迫ります。
こうした差し迫った必要性から主流言語を使い始めた少数言語の話者は、自らの子どもの世代にはその少数言語を積極的に継承しようとはしないでしょう。なぜなら、もうそこでは使わないからです。
使われずに次世代に継承されない言語は、時間とともに話者数が減り、消滅する運命をたどります。
日本も例外ではない
言語消滅の動きは、日本も例外ではありません。
日本に消滅する言語があると言われても、ピンとこない方も多いと思います。「日本は単一言語社会である」という認識が、広く日本人に浸透しているからでしょうか。
一方で、日本にはいわゆる「日本語」とは全く違う「アイヌ語」という言語があることを、思い出される方もいるはずです。そしてこのアイヌ語、2017年の時点で話者数がわずか5人しか残っておらず10)、消滅の危機に瀕している言語の一つです。
消滅する恐れのある日本の言語は、アイヌ語だけではありません。
上述のUNESCOが発表した『Atlas of the World’s Languages in Danger』では、日本における消滅危機言語として、アイヌ語のほかに八丈語、奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の計8言語を挙げています。
このUNESCOの発表に対し、日本の文化庁は「UNESCOは言語と方言を区別していない」と注釈をつけながらも11)、現状の把握および保存や継承に向けた取り組みに関する調査研究に着手しました。
また日本語学や日本語教育を研究する機関である国立国語研究所(NINJAL)は、日本の消滅危機言語を紹介する「危機言語データベース」12)を設置。様々な方言の基礎語彙を記録し、公開し始めています。
ところが、こうした消滅危機言語を守ろうとする動きが具体的なものになっても、日本国内にも消滅危機言語(方言)があるという実態はあまり知られていません。
絶滅の危機に瀕した野生生物の保護が叫ばれたり、高齢者、LGBT、障がい者などを含めたあらゆる人とともに社会をつくる「ダイバーシティ」の実現が求められたりしているというのに、「言語の多様性」が失われる危機感については広く社会に及んでいないのです。
なぜなのでしょうか。
言語の消滅は問題なのか?
その理由について考える際に、避けては通れない問いがあります。
それは、「言語が消滅することは、そもそも問題なのか?」です。
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少数言語の消滅に関する意見をインターネットで検索してみると、「言語の消滅は避けられない」とする意見が目に留まります。
たとえば「言語の消滅は社会変化の結果であってしかたがない」だったり、あるいはもっと積極的に「言語は統一された方が便利だ。危機言語を守る必要はない」という意見さえもあります13)。
つまり「少数言語が主流言語に置き換わるのは、社会全体として(経済的に)メリットがあるからだ」という考えです(執筆者にとって身近なことでいうと、言語が一つになれば翻訳コストがかからなくなります)。
確かに近代化を進める明治時代の日本が全国で通じる「標準語」を形成しようとしたことからも分かるとおり14)、言語の標準化は国家統一や経済成長を後押しするのでしょう。
他方、言語の消滅を問題視する意見も、もちろんあります。
よく見る主張としては、「言語には、その土地に根付いた人々の記憶と知恵が詰まっている。それを失うことは、人類共通の財産としての知のアーカイブを失うことにつながる」というものです。
たとえば、UNESCOはそのWebサイトで、”Biodiversity and linguistic diversity―Maintaining indigenous languages, conserving biodiversity15)”(試訳:生物多様性と言語の多様性 ― 先住民族の言語を守り、生物多様性を保持する)というタイトルの記事を掲載しており、
そこには「先住民族の言語は、周囲の自然環境に対する深い理解を反映している。彼らの言語が消滅するようなことがあれば、その理解は失われる。彼らが生活する(または生活していた)自然環境に何が存在するのか分からなくなり、それは生物の多様性が損なわれることを意味する」という内容が書かれています。
つまり、「ある言語が消滅すると、その環境に生息する生物に対する知識が失われる」ので「そういった知識を守るために、消滅の危機にある言語を守ろう」というのです。
こうした観点は他でも紹介されています。
ビジネス雑誌Wiredの日本語版Vol.19『ことばの未来』16)では、「絶滅危惧言語では、植物相と動物相に関して、西洋科学で知られているより何百種類も多い分類がされていることがよくある」とし、
ある少数民族の言語には、人間にとって有益な植物(薬を作るのに必要な植物)とそうではないものの区別があり、この知識が製薬の現場でも役に立つのだという言説を展開しています。
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「言語の消滅は問題なのか?」に対するそれぞれの意見を概観してみて、どの意見も立場の違いとして理解はできることと思います。
理解はできる一方で、こうした意見に対し、違和感を覚える人も少なくないのではないのではないでしょうか。もしかしたら危惧を抱く人もいるかもしれません。
言語が統一されれば、コミュニケーションコストが下がり利便性が上がり、ビジネスや経済、社会の交流が活発になる。
言語が保護されれば、知識と知恵が保護され、それがわたしたちにとって役に立つ。
一見、言語の「統一」と「保護」は、まったく別のことを言っているように聞こえます。ところが保護する側の意見の根底にはあるのは、「言語が消滅するのが問題なのは、その言語が人類全体の――より正確にいえば主流言語を使うわたしたちの――役に立つからだ」という論理です。
その論理は、「人類全体の役に立つのなら(あるいは役に立たないのなら)、その言語の消滅は仕方がない」とする、言語統一を是とする論理と同じです。
どちらの意見も、主流言語を扱う側にとって役立つか否かの視点で、少数言語の存滅を見ているのです。
ここで一旦立ち止まって考えたいことがあります。
言語は本当に、役立つ役立たないという観点で、その必要性を判断されるべきものなのでしょうか。必要がなければ失われてもいいという、ただのツールのようなものなのでしょうか。
言語はただのコミュニケーションツールか?
上述の『Atlas of the World’s Languages in Danger』に掲載されている消滅危機言語の一つに、ハワイ語があります。
ハワイ語は、教育現場での使用が禁じられた1896年から話者数が激減。1992年の時点で残された話者数は多く見積もって2000人程度で、その9割が70歳以上とされています17)。今でこそハワイの公用語は英語とハワイ語ですが、圧倒的大多数が英語を扱います。
ところがこのハワイ語、若者を中心とした復興運動が徐々に広がり、母語として話す人が増え始めています18)、19)。この動きは政府をも巻き込み、2006年の時点で、ハワイ語による教育を受ける子どもは約2,000人に達しています17)。
英語という世界の多くの人と繋がれる言語を話す若者たちが、わざわざハワイ人だけの間でしか通じないコミュニケーション手段を欲し、ハワイ語を守り取り戻そうとしている。
これは一体なぜなのでしょうか。
日本では英語を社内公用語とする企業が珍しくなくなりました。教育現場では、一部の授業あるいはすべての授業を、英語だけで行う大学も増えてきています。以前と比べて、日本語の使用領域が明らかに狭まりつつあります。
想像してみてください。
今は一部の企業や大学だけで起きているこうした日本語の「部分的な」消滅の流れが、日本の公用語を日本語ではなく英語にするという動きにつながってしまったとしたら。
日本語を自由に使える場所が次第に少なくなり、役所に行っても銀行に行っても、新聞やテレビでも、使われるのは英語。次世代に対しても英語で対応することが迫られる――。
言語が単にコミュニケーションの道具なら、日本でしか通用しない日本語よりも,世界で使われる英語に切り替えるほうが明らかに効果的です。それでも、このような状況を想像して、英語の公用化を手放しで受け入れる日本人はどれほどいるでしょう。
受け入れるどころか、寂しさ、窮屈さ、困難さ、憤りをもって抵抗するのではないでしょうか。
ハワイ語を守る若者の動きや、いまあなたが想像して抱いた感情。
それはきっと、わたしたちが言語をコミュニケーションの道具以上のものだと考えていることの現れです。
言語を失うということで道具以上のなにかを失うことになる。顕在的であれ潜在的であれ、わたしたちはそのことを知っています。
言語とは「あなたの一部」である
コミュニケーションツールとして英語なり共通の言語があるのは、素晴らしいことです。初対面でもある程度の会話が成立し、意思の疎通がスムーズになり、誤解の少ない伝達が可能になります。
しかしそのような利便性は、言語のツールとしての側面からくるものに過ぎません。
わたしたちは言語で思考しています。言語がなかったら、おそらく考えることはできません。その意味で、言語というのは、私が私であるためのものであり、あなたがあなたであるためのものです。
その思考に使う言語は、人が土地に根ざして暮らす中でつくり上げていきます。時間をかけて、その土地独自の語彙や表現を発達させていきます。
わたしたちは、その土地で生まれ長い歴史を生き抜いてきた言葉を通して思考し、その語彙と表現をもって世界を理解し、自分の経験を理解します。
つまり、わたしたちにとって言葉とは、世界をみる目であり自分を形成するためのものであり、アイデンティティーの重要な一部と言えます。アイデンティティーだと大きな問題のように聞こえてしまうなら、「言語はあなたの重要な一部」であると言ってもいい。
言語が生まれ存続するところには、それを使う人のアイデンティティーがあり、その人がある。
この記事の途中で、「言語が消滅することは、そもそも問題なのか?」という問いについて考えました。この問いは次のように書き換えることができます。
「あなたのアイデンティティーが消滅することは問題なのか?」
「あなたの重要な一部が消滅することは問題なのか?」
言語があなたの一部だとしたら、言語の消滅に危機感を抱かないわけにはいきません。
一介の翻訳者として、消滅してしまった言語と消滅の危機に瀕している言語に触れて、思うこと。
言語は単なるコミュニケーションツールではないということ。それぞれが文化と気候と社会構造が違う生活に根ざしたものであり、そこに生きる人を反映しているということ。
言葉一つ一つに生まれた背景があり、そこに使う人の一部があるということ。
翻訳者はそうした「言語」と「言語」をつなごうとしている。
そのことに改めて身が引き締まる想いがします。
執筆:田村嘉朗
大手通信会社ロンドン支社勤務を経て、2013年より翻訳者として活動
専門は通信、マーケティング
参考書籍・URL
1. 日テレNEWS:『チリ「ヤーガン語」話せる最後の1人 93歳で死去』
https://news.ntv.co.jp/category/international/16bdfa2fdc124c7ba0fa1afa17f2300b
2. Wikipedia:Language death
https://en.wikipedia.org/wiki/Language_death
3. Ethnologue, Language of the world:Welcome to the 25th edition
https://www.ethnologue.com/ethnoblog/gary-simons/welcome-25th-edition
4. Ethnologue, Language of the world:Welcome to the 24th edition
https://www.ethnologue.com/ethnoblog/gary-simons/welcome-24th-edition
5. UNESCO:Atlas of the World’s Languages in Danger
http://www.unesco.org/languages-atlas/
6. World Economic Forum:These are the world’s most spoken languages
https://www.weforum.org/agenda/2018/02/chart-of-the-day-these-are-the-world-s-most-spoken-languages/
7. ナショナル ジオグラフィック日本版 2012年7月号
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120621/313414/
8. 世界随感録(上田輝彦):今世紀中に言語の90%が消滅
https://terueda.com/2019/01/03/%E4%BB%8A%E4%B8%96%E7%B4%80%E4%B8%AD%E3%81%AB%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE90%EF%BC%85%E3%81%8C%E6%B6%88%E6%BB%85/
9. Linguistic Society of America:What Is an Endangered Language?
https://www.linguisticsociety.org/content/what-endangered-language
10. 吉岡乾、西淑 著『なくなりそうな世界のことば』創元社
11. 文化庁:消滅の危機にある言語・方言
https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/kikigengo/
12. 国立国語研究所:危機言語DB
http://kikigengo.ninjal.ac.jp/index.html
13. 国立国語研究所:日本の消滅危機言語・方言の記録とドキュメンテーションの作成
https://www.ninjal.ac.jp/research/project-3/institute/endangered-languages/
14. 東京新聞:明治150年と日本語
https://www.tokyo-np.co.jp/article/3116
15. UNESCO:Endangered languages―Biodiversity and linguistic diversity
http://www.unesco.org/new/en/culture/themes/endangered-languages/biodiversity-and-linguistic-diversity/, (accessed:2022-03-03)
16. WIRED:たったひとりのことば──絶滅する言語と失われゆく「世界」
https://wired.jp/special/2016/loss-for-words/
17. ハワイ語再活性化運動の現況:松原好次、電気通信大学紀要19巻1・2合併号、pp.117-128(2006)
18. NHK BS1 ワールドウォッチング:キャッチ!世界のトップニュース(2020年4月6日)https://www.nhk.jp/p/ts/KQ2GPZPJWM/episode/te/B662K524V9/
19. トラベルボイス:ハワイ州観光局、ハワイ語通して文化理解深めるキャンペーン、SNSやラーニングプログラムで
https://www.travelvoice.jp/20220208-150610