英文法って難しいなぁと、つくづく思います。
あるいは奥が深いと言った方が適切でしょうか。
翻訳者として日常的に英語に触れる中で、それが原稿であれ訳文であれ、文法的にうまく理解できない英文に出会うことがあります。ときには自分の知識不足を棚に上げて「この英語、間違ってるんじゃないか?」と英文自体を疑うことも。
そんなときは信頼できる英語ネイティブに確認します。すると「あまり見ないかたちだけど間違いではない」とか「文法的に乱れてはいるけど、この英語はむしろ効果的」とか、つまり私が間違いだと思った英語が正しい英語だった……ということがよくあります。
一方で、正しく理解していると思っていた英語を実は理解できていなかった、ということも珍しいことではありません。
文法的にはなんの疑問も抱かずに読み進めていたけど、文章の内容としてつじつまが合わない。困って英語ネイティブに確認すると、私が正しいとして疑いもしなかった一文の文法的解釈が、実は間違っていた。
「この英文法の参考書には、この表現は正しいと書いてあるんだけど……」
「そうだとしても、この流れでは間違いですね」
「……」
このように英文法の理解に頭を悩ますことは年がら年中です。勉強しても勉強しても先が見えない英文法の奥深さは、まるで底なし沼のよう。
英文法はだから難しい
英文法の何が難しいって、曖昧なのですよね。正しさの基準が。
だってそうじゃないですか。辞書にも文法書にも載っていなかったとしても、間違いとは言えない英語がたくさんありますよね。一方で正しい文法として掲載されていることも、そこにはもれなく例外もあり、理屈だけでは習得できそうにないことだってたくさんあります。
おそらく英語ネイティブからしてみたら、文法的に正しい英語とそうでない英語はみればすぐに分かるのでしょう。でも英語ネイティブでも帰国子女でもない私からしてみたら、何が正しくて何が間違っているのか、分からなくなることがある。
数学のように論理が明快で曖昧さがなければ、英文法の習得もだいぶ楽になるのに……そう思ったことは一度や二度ではありません。
たとえばですよ、英語の全規則が網羅された『英文法超大経典』のような巨大な書物のようなものが存在して、翻訳者や英語教師になった暁にはどこかの組織から届けられるとか。
そんな書物があるとしたら、きっと “文法の神様” のような人がその書物の著者で、ときにカッと目を見開いて「Whomは時代に合わないから不要!」とか言って、それが文法的正しさになる。非常に明確です。
そんな妄想を英語ネイティブに話したら、
「本当にそう。英語だけじゃなく、『日本語文法超大経典』があったらいいのに……」と。
なぜそれが正しい文法だと言えるのか?
その一言で妄想から抜け出した私は、日本語文法について考え始めました。
“文法の神様” なんかではなく、当然ながら『日本語文法超大経典』も持っていない私たち日本人は、日々、どのようにして妥当な日本語を選択しているのでしょうか。
たとえば、ふと耳にした斬新な日本語表現(「チルい」「エモい」など。もしかしてもう古い?)を自分でも使うかどうかを(しばしば無意識的に)判断するとき、「新しい表現が既存の文法規則と矛盾しないこと」と「新しい表現を使うと今までより効率的に伝えられること」のどちらを優先するでしょうか。
あるいは、時代に合わなくなった古い表現を使い続ける不利益と、その修正が必要であることを(身の回りの)日本語共同体に周知して理解させるコストは、どのように天秤にかけられるでしょうか。
つまり、自分が使う日本語表現の取捨選択を、私たち日本人はどのような原理に従って決定しているのでしょうか。
少なくとも私は、自分自身で行っている決定であるにもかかわらず、その原理を把握できていません。おそらく把握できていないのは私だけではないでしょう。なぜそう言えるかというと、私を含め多くの日本人は「その日本語表現が正しくて、別の表現を誤りと感じる」理由を、うまく説明できないからです。
そして不思議なことに、原理を説明できないくせに――あるいは説明できないからこそ?――私たちの日本語の正誤に対する判断は、ほぼ自動的に素早く、しかも確信に満ちている。
「うまく説明できないけど、その表現は絶対にヘン」と。
そう言い切れるということは、私たちは正しい日本語文法を知っていることになります。
でも一体、誰が正しい日本語文法を定めたのでしょう?
そして私たちはそれをどこで知ったのでしょうか?
文法的正しさを決めるのは誰?
正しい日本語文法を定めるのは、もちろん “文法の神様” ではありません。
ひとつの言語の規則の全体はあまりにも大きくあまりにも複雑で、しかも時代に合わせて変化し続けなければならないものですから、ある特定の個人(神様を個人と言えるのかはさておき)によって定められ得るものではなく、また定められるべきものでもないでしょう。
文法学者でもありません。
文法学者は人々の言語使用の実例を広範に採集したうえで、その構造を研究し、中に隠れている規則を明らかにしているのであって、規則自体をつくっているのではありません。また、ある特定の表現に対し、正しいとも誤りだとも判断を下しません。
たとえば、「食べられる」を「食べれる」とする「ら抜き」言葉に対する文法学者の態度は、それを正しいとも誤りだとも判断するものではありません。単に研究対象として取り上げるだけです。仮に「それまでの規則と矛盾するもの」と判断したとしても、圧倒的多数が「ら抜き」言葉を使用するのであれば、学者の側はその現実を受け入れ、規則に盛り込むしかありません。
では一体、誰が正しい日本語文法を定めているのでしょうか?
実は日本語文法を定めているのは、“文法の神様” でも文法学者でもなく、日本語を使う私たちひとりひとりです。
日本語を含む全ての言語は、人が土地に根ざして暮らす中で必然性をもってつくり上げられるものです。権力を持つ個人や組織によって恣意的に生み出されるものではありません。(権力者でも文法学者でもない)普通の人々が、その生活の中で集合的に構築していくものです。
言語を構築したのがその言語の話者であるならば、その文法体系はその言語の全話者によって集合的に築き上げられる<その時点での>規則の総体であると言えます。
<その時点での>と強調したのは、文法体系は不変のものではなく、変わり続けるものだからです。
人々は時間をかけながら、でも着実に、その土地独自の語彙や表現を発達させていきます。膨大な数の人があらゆる状況でその言語を使い続け洗練させていき、時代に合わせたものへと変えていきます。
言語を進化させているのがその言語の話者ということは、私たちは自分が使う言語の文法体系の策定に現在進行形で携わっているということを意味します。
おそらくその自覚をもつ話者は極めて少数派でしょう(もちろん私にもありません)。その意味で、文法体系策定のプロセスは私たちにとって無意識的なものです。
文法を定めているのはあなた
とはいえ、いきなり「日本語文法を定めているのは日本語を使っているあなたです」なんてことを言われても、なかなか腑に落ちないのではないでしょうか。無意識的なものですし、それも当然かもしれません。
次のような状況を想像してみてください。
あなた(あるいはあなたの話相手)が実践的な言語生活の中で「ここはこう表現すると、もっとうまく伝わるかな」と考え、その表現を使用する。それを聞いたり読んだりしたあなたの話相手(あるいはあなた)が「その表現、分かりやすくていいね!」と思い、その人(あるいはあなた)も使用する。さらにそれを聞いた別の人が・・・というように、その表現の使用範囲がどんどんと広がっていく。
そしてその表現を大多数の人が使うようになったなら、あなたが考えた(あるいはあなたが「いいね!」と思った)その表現は、市民権を獲得し日本語の一部になったということ、すなわち、多数決を通じて日本語の文法規則の中に取り込まれ、文法的な正しさを持った、ということになる。
もしあなたに、誰かに何かを伝えるときに「どうすればうまく伝わるだろう」と立ち止まって考えた経験があるのであれば。また、誰かの言葉に触れて心が動かされ、あなたもまたその言葉を使ってみた経験があるのであれば。
あなたには、文法的正しさに対する多数決の当事者になった経験が――つまり日本語文法の策定と進化に貢献した経験が――あるということになります。
このように日本語文法が構築され更新され進化する時というのは、必ずあなたを含めた話者の(無意識的)多数決が実施されています。
そしてその多数決の基準にあるのは、言葉を生んだエネルギーでもある、今よりもっと「伝えたい」「分かり合いたい」という気持ち。あなたのそうした気持ちが、文法を進化させます。
そのように考えると、文法が全く違ったものとして、その正体がみえてくるかもしれません。
一見して曖昧で難しい文法、その正体は、話者ひとりひとりの言葉に対する判断が積み上がった成果であり、すなわち「伝えるためのみんなの工夫」です。
英文法との付き合い方
私たち日本人は、日常会話の中で多くの日本語を読み聞きします。それは、多数決の結果、つまり「伝えるためのみんなの工夫」に日常的に触れているということです。だからこそ、私たちは正しい日本語文法を知っています。
そして、日本語を使う人々が伝えることに対する向上心を失わない限り、日本語は話者の工夫を取り入れながら、変化と進化を続けます。
それはつまり、正しい日本語文法は常に変わり続けることを意味します。
このことは日本語だけに当てはまるものではありません。全ての言語がそうですし、英語だって当然そう。
英語を使う人々が「もっと分かり合いたい」と考えている限り、そして英語が話者の工夫を取り入れ進化している限り、不変の文法ルール、ましてや『英文法超大経典』なんて、存在しなくて当たり前なのでしょう。
確かに英文法の正しさの基準は曖昧かもしれない。そして英文法は難しく奥が深いかもしれない。
でも。
曖昧さは英語が常に進化している証拠。英文法が難しく奥が深いのは、そこに全話者の工夫が生きているから。話者ひとりひとりの「もっと分かり合いたい」という気持ちがそこに現れているから。
そう認識することができれば――英文法から「伝えたい」という意志を感じることができれば――原文の意味を伝えるために存在する翻訳者として、英文法と今よりも良い関係を築きやすくなるのではないでしょうか。
翻訳も英文法も、「伝えるため」にあるのですから。
執筆:田村嘉朗
大手通信会社ロンドン支社勤務を経て、2013年より翻訳者として活動
専門は通信、マーケティング