<img src="https://trc.taboola.com/1341089/log/3/unip?en=page_view" width="0" height="0" style="display:none">

代表挨拶

あたらしい企業価値を追求するために
WIPジャパンの代表からのメッセージをお伝えします

もっと理解しあえる
世界をつくりたい

今後、ますます世界の一体化が進展し、世界の「距離」が縮まり「壁」が低くなっていく中、「異なる」もの同士の衝突は増加の一途をたどっていくに違いありません。「世界の相互理解をいかに進めるべきか」は世界にとって喫緊の課題であり、私たちにとって最大の事業命題です。

世界の人々が理解を深めること ─ 自分と「異なる」ものに対する理解 ─ は、言葉の壁を超え、心の領域を拡げることだと考えます。

世界の人々はより理解しあわなければなりません。他者や他国に無関心であってはなりません。他者を理解する努力と自分を理解してもらう努力を放棄してはなりません。「異なる」ものを捉える心ではなく、「共通する」ものを捉える心を持つ寛容な世界を創らなければなりません。

道程は決して平坦ではありませんが、こうした環境を創出していくために、私たちは、言葉・情報・知識の壁を取り払っていきたい、と同時に、多様性を尊重し、異文化理解を進めていきたいと思います。そして、これこそ今世界が直面している諸問題を解決する道だと信じています。

より理解しあえる世界を実現するため、より多様性のある世界を創り出すため、微力ながら少しでもお役に立つことが出来れば、これに優る喜びはありません。

どうか、世界の国と人々がそれぞれ個性を発揮し、お互いに独自の英知と貢献を提供しあえる世界になりますように。そして、さまざまな国と地域の人々が、質・量共にコミュニケーションを深め、もっと理解しあえる世界になりますように。

t-ueda
代表取締役社長
上田 輝彦
UEDA Teruhiko
個人プロフィールはこちら


社長ストーリー:
「土下座営業から一念発起、英国留学して夜間バイトしながら起業家へ」

【バブル期の銀行就職からバブル終焉】

春になると思い出します。桜の花が舞い散るバブル期に、私は大阪市内中心街にある都市銀行に勤めることになりました。大学を卒業し、海外展開に積極的であった都市銀行に入行し、東京での採用でしたが、これまで縁のなかった大阪で商売を学んでみたいという希望が叶い、大阪・難波に配属されました。当時、経営者に喜ばれる仕事がしたい、国際的な仕事がしたいという動機もあり、夢にあふれていました。

しかし、まもなくバブル期が終わりを告げ、その後、顧客回りの営業に異動してから、バブル期に借入をした融資先から「無駄な借り入れだった」と罵倒されたり、返済が滞って行方不明となる社長が現れたりしました。

さらに、金利の自由化がすでにスタート、高い金利を標榜する他の金融機関に預金が流出し始めていました。そんなある日、私が担当するお客様の一人が、自分の預金を他の銀行に移そうとしていると知り、夜討ち朝駆けで何度も往訪して考え直すように依頼したのですが、お客様は私の言葉に耳を貸してくれませんでした。

その時、私は膝をついてお願いしました。頭を下げ、土下座をして、お客様の預金流出を引き留めようとしたのです。お取引のメリットを提供できない力不足の私にはそうするしかありませんでした。しかし、お客様は満期が来る度に預金を他の銀行に移し替えていきました。他の預金者の多くも同様でした。こうして私が管理していた顧客アカウントの預金流出のトレンドは止まらず、管理預金は次第に減少していきました。

【銀行退職から留学へ】

私は自分の仕事が顧客に本当に喜ばれているのか、自問することが増えました。同時に、自分自身の力不足を痛感し、自分のキャリアに疑問を感じ始めました。一度の人生、もっと世界を見て国際的な仕事に携わりたいという初志を貫こう、そう決めて、銀行を辞めることにしました。当時は、転職が今ほど一般的ではなく、親や親戚から猛反対を受けました。が、決意は揺るぎませんでした。

退職したものの、留学に向けた準備は容易ではありませんでした。私の英語力はまだまだ不十分でした。しかし英語力を磨くために必死に勉強し、留学直前に英語の試験をギリギリでクリアしました。さらに、無職の身でありながら留学前に結婚しました。渡英は妻を一人残していくことになり、それがとても苦痛でした。自分自身の夢を追うことと、家族を支えることの間で板挟みになり、心が揺れ動く日々を過ごしていました。

しかし、初志を貫くため、研究分野に精通するために、情報を徹底的に集めました。その努力、妻・友人・家族・銀行時代の仲間・先輩・上司・取引先の応援が実を結び、英国ケンブリッジ大・大学院に入学することができました。

【留学先での苦労、そして帰国へ】

ケンブリッジは約30の学寮から成る大学の街で、私はペンブローク学寮に入学しました。大学での生活は映画「ハリーポッター」のような趣があり、大きな食堂ではドラムが鳴らされ、黒いガウンを着た学生全員が立ち上がって教授たちが着席するのを待ちます。お祈りの言葉はラテン語で、最後に「アーメン」と言うと着席できる、そんな伝統文化が息づいていました。全てが目新しいものでした。

一方で、言葉の壁は高く、膨大な課題図書や論文の準備に取り組む時間がなくなるため、隣人になった学生たちからパーティーなどに誘われても断ることが多くなりました。もっと早く英語を読むことができたらなと、自分の英語力の不足を悔しく感じていました。

そこで、大学の日本語講師の臨時職を得て、日本語を教えながら、終了後学生たちと言語交換を始めることにしました。さらに、大学外の語学学校に通ったり、家庭教師を雇ったりしながら、日々の論文校正だけでなく、英語を話す機会を増やし、語彙力やリスニング力の向上に努めました。その結果、口頭試問に合格でき、学位を無事取得することができました。

その後、帰国後の起業モデルを探すために、現地で知り合った友人たちと共に旅をしました。ロンドンでは介護施設、アムステルダムでは人気の飲食店、スウェーデンでは介護施設・サウナ・地熱発電所を視察し、身体障害者向けの家具製造を、船舶業界向けのニュースメディア配信を探求しました。こうして帰国するまでに様々なビジネスモデルを調べ、多くの情報を入手することができました。そして、帰国したのですが・・・

【帰国後、夜間バイトをしながら起業へ】

資金不足のため、帰国後すぐに会社をつくることができませんでした。しかし手元に握りしめた50万円の資金で、マッキントッシュのPCを中古で入手し、幽霊が出そうな古いマンションの一室を借りて事業を始めました。最初は机もなく、テーブル兼用こたつと座椅子だけでした。それでも友人たちと夢を語りながら、新しいビジネスモデルを議論するのが好きでした。それぞれが持つスキルや情熱を生かし、ワクワクすること、得意なこと、社会に貢献できること、この3つが重なるところでアイデアを出し合いました。

最初のプロジェクトとして、日本の経営者に世界の一流新聞と経済誌のダイジェストをFAX配信することで動き始めました。私たちは、自分たちが構築したネットワークを活かし、海外の情報を日本語に翻訳して整理し、世界主要国のメディアから注目すべきニュースをピックアップし、日本の経営者たちが簡単に海外の視点を獲得できるメディアを提供することを目指しました。

一方、生活費も稼ぐ必要があったため、夜間の道路警備のバイトにも就いていました。日中は、オフィス兼住居で起業の準備をするために、情報を収集したり、必要な人をリクルーティングしたりして、夕方になると、電車に乗って警備現場に向かい、深夜働いて朝方にオフィスに戻る生活をしばらく続けていました。 さらに、売上の一助として、創業仲間が石焼き芋の販売も行いました。仕事がないときは、石焼き芋の販売車を借りに行き、色んなところで販売したのです。私たちは多忙な毎日を過ごしながらも、夢に向かって歩み続けました。

【初めての仕事、そして気づき】

そんな中、友人経由で大阪市が進めている五輪の招致活動プロジェクトを手伝わないか、と問合せを受けました。難度の高いチャレンジングなプロジェクトで先が見えない内容でしたが、即「やらせてほしい」と答え、過去の五輪に関連した海外情報を収集する仕事にとりかかりました。最初は、どのように料金を見積もれば良いのかもわかりませんでしたが、優秀な協力者・協力会社を探し訪ね、プロジェクトに参画してもらい、様々なことを教えてもらい、一緒にゴールまで進めることができました。

その後、様々な人から「こんなことができないか」と相談されるたび、難しそうでも「やらせてください」と引き受けて、それから「どうやるか」を一生懸命考えて結果を出してきました。

こうして気づいたことは、自分自身に能力がなくても、能力のある専門家や有識者と組めば何だってできる、その体制づくりこそが大きな付加価値を生むということでした。その後、顧客の要望に都度沿うために、翻訳者・通訳者・リサーチャー・有識者のネットワークを世界中に広げていきました。

これこそが、WIPの社名でもある「ワールドインテリジェンスパートナーズ」、つまり、世界中の優秀な知的能力を持ったパートナー(協力者)とのボーダーレスな提携で、世の中の課題解決のお手伝いをしたい、お役に立ちたい、お役に立てる、それが私たちのミッションになりました。このネットワークさえあればできないことはない、という確信が生まれました。

【人生とはチャレンジ】

その後、私にとって、人生は常にチャレンジの連続でした。現在もそうです。起業とは「恐怖クラブ」に入会するようなものです。売上が落ちることがあると、これがずっと続くのではないか、そんな恐怖心が沸くのです。決して大げさではありません。

しかし、常にそのようなチャレンジをすることで多くのものを得られることを実感しています。怖い体験や苦しい状況でも、それを乗り越えることができた時には、自信と強さを感じることができます。「火事場」に出会うことで初めて、自分の中に自分が思う以上の「馬鹿力」があることを発見するのです。

ビジネスパーソンとして成功するためには、何度も困難な状況に直面しながらもそれを克服する必要があり、そうすることで、リスクを避ける能力や耐える力、経験から学んだことを活かして次のステップに進む力が身につくと思っています。苦労を乗り越えてきた経験が、ビジネスパーソンにとって強さや成長の糧となる、そう自分に言い聞かせてきましたし、だからこそ、多くの人たちにもチャレンジすることを勧めています。

【外国語市場にチャレンジを】

特に、外国語を使ったビジネスが難しいと感じている方々に、外国語市場に挑戦することを勧めています。外国語に慣れ親しんでいない人にとっては、言葉の壁が立ちはだかり敷居が高いように感じるかもしれません。しかし、このようなチャレンジこそが、新たな成長やビジネス機会を生み出すのです。 日本の人口は、30年後には9300万人を下回ると言われています。現在よりも3200万人も減少するということです。もし現在の出生数が続けば、遠い将来、日本の人口は5000万人を切るでしょう。

これは、「日本語市場」が急速に縮小していくことを意味します。 自分の商品やサービスが日本人だけが購入するものであるとは限りません。「世界中にはあなたの商品やサービスを求めている人がいる」ということを忘れないでください。日本語のみにこだわり、「日本語以外の市場」にも目を向けないと、今後ジリ貧になることは避けられません。円安下の日本経済にとって、外国語・多言語市場への展開は最高のチャンスであり、その日本企業のチャレンジを私たちは手伝っていきたいと思います。

【外国語でビジネス、難しいと思っていませんか】

すでに誰もが日本語だけにとらわれずに仕事ができる時代に入っています。なぜなら、外国語が全くできない人でも日本語以外で仕事を進められる環境が整ってきたからです。

全部自分と自社でやる必要はありません。便利なツールや翻訳エンジンやAI(人工知能)を使い、筋道に沿ったやりかたを進めれば、誰もが、海外と取引し海外に販売できます。

私たちは、1995年以来、外国語や海外情報で困っている1万2千社以上の企業を手助けしてきました。中には、全く英語ができない人たちの海外展開もお手伝いしました。もしよろしければ、あなたの事業や業務をサポートする仲間になります。私たちには、そのためのスタッフとサービスがあり、自信をもってお手伝いします。


世界の諸問題を解決するために

援助対象国 :

ブルキナファソ、ジンバブエ、ドミニカ、インド、ケニア、 マラウィ、マリ、エチオピア、ネパール、バングラデシュ、セネガル、パキスタン、ペルー、エクアドル、フィリピン、シエラレオネ 

※第一次世界大戦時の実話に基づく童話「友情のシンフォニー」を 10ヵ国語に翻訳、インターネットで世界中の子供達に発信しました(1995年12月 UNICEF本部より当プロジェクトに対し感謝書状拝受)