「翻訳を頼んだものの、使用を始めた後に問題が見つかった」。翻訳の発注では、このような事態が起こることがあります。しかし、その原因を「翻訳の質が悪かった」と片付けてしまうと、同じトラブルが繰り返されます。翻訳品質の問題は納品後の確認で表面化しますが、その背景には、発注前の要件整理、原文の曖昧さ、参考資料や用語指定の不足が関係していることがあります。
1. よくあるケース:納品後3ヶ月で発覚した誤訳
発注側の担当者が気づかないまま問題が進行したというケースをご紹介します。
(以下は、翻訳発注時に起こり得る問題を説明するための架空のケースです)
ある企業の法務担当者が、海外拠点向けの就業規則を翻訳会社に発注した。納品物は「問題なさそう」に見えたが、社内に英語を確認できる担当者がいなかったため、そのまま現地に配布した。
3ヶ月後、現地法人から連絡が入った。「解雇条件に関する英語表現が、原文の意図とは異なる内容になっている。このままでは現地で誤解を招くおそれがある」。
結局、再翻訳と配布のやり直しで、コストも時間も当初の見込みを大きく超えた。
問題は翻訳の質だけにあったのではありませんでした。発注前に「この文書を、誰が確認するのか」を決めていなかったことが、根本的な原因でした。
2. 発注前に確認すべき3つの問い
翻訳サービスの国際規格ISO 17100を基に制定された日本産業規格「JIS Y 17100:2021」では、翻訳の制作準備段階として、引合い・見積り・クライアントと翻訳サービス提供者との合意・プロジェクト準備が明示されています。このように、同規格は翻訳作業そのものだけでなく、着手前の合意や準備も翻訳サービスのプロセスに含めています。
とはいえ、規格の詳細を把握して発注するのは現実的ではありません。そこで、発注前に答えておくべき問いを3つに絞りました。この3つに答えるだけで、工程・費用・品質の設計が大きく変わります。
問い①「この文書、最終的に誰が・何のために使いますか?」
対外提出・法的効力・安全規格に関わる文書と、社内共有・情報確認目的の文書では、求められる翻訳品質がまったく異なります。
たとえば、投資家向けの開示文書や規制当局への提出書類は、数値や表現の誤りが、意思決定、信用、規制対応などに影響するおそれがあります。一方、社内勉強会の参考資料であれば、多少の訳語のゆれは許容されます。同じ「英日翻訳」でも、用途によって必要な工程はまったく違うのです。
「何となく重要そうだから、しっかりやってほしい」という発注では、翻訳会社側も工程を設計できません。文書の用途を具体的に伝えることが、適切な工程を選ぶうえでの最初の一歩になります。
問い②「納品後、社内で確認できる人はいますか?」
納品物を社内でチェックできる体制があるかどうかで、必要な工程が変わります。社内に対象言語と専門分野を確認できる担当者がいる場合は、その担当者がどの段階で何を確認するのかを、翻訳会社とあらかじめ分担できます。
逆に社内に確認体制がない場合、納品後に用途や社内ルールとの不一致があっても、使用前に発見できない可能性があります。「問題が起きたとき誰も気づけない」状態で対外使用する文書は、それだけで高いリスクを抱えています。冒頭のケースも、「社内に確認できる人がいない」という状況が見落とされたことが発端でした。
社内の確認体制の有無を発注前に伝えるだけで、翻訳会社は工程の厚みを適切に調整できます。
問い③「訳語や修正のルールは、あらかじめ決まっていますか?」
「どの訳語を使うか」「修正が入ったとき誰が最終承認するか」が発注前に決まっていない場合、納品後の修正コストが膨らみやすくなります。特に、複数の翻訳会社を使い回しているケースでは、文書ごとに訳語がバラつき、「前回と言っていることが違う」という指摘につながることがあります。
継続的に翻訳が発生する文書(月次レポート・定期改訂されるマニュアル・繰り返し発生する契約書類)は、初回から用語集と承認フローを整備しておくことで、2回目以降の訳語確認や修正の手戻りを減らし、品質を安定させやすくなります。継続案件では、結果として確認工数を抑えられる場合もあります。
3. さらに確認しておくと良いこと
3つの問いに加えて、以下も整理しておくと発注がスムーズになります。
- 特に気をつけたい箇所はあるか:技術マニュアルであれば安全警告・数値・操作手順、契約書であれば義務・禁止・条件節など、文書によって重点確認箇所が異なります。「ここだけは絶対に誤ってほしくない」という箇所を事前に伝えることで、工程を効率よく設計できます。
- 納期と予算に余裕はあるか:「明日までに」「できるだけ安く」という制約は、工程の選択肢を狭めます。制約が明確であれば、その範囲で最善の工程を提案できます。
なお、一般社団法人 日本翻訳連盟(JTF)の『翻訳発注の手引き』でも、翻訳の目的・誰が読むのか・何を伝えるのか・どこで使うのか・いつ必要か(納期)・どの程度の予算・リスクを想定するのか——これらを発注前に整理して共有することが重要とされています。また、JTFが定める品質の考え方では、翻訳成果物の質は「関係者間で事前に合意した仕様を満たす程度」によって評価されます。この観点からも、発注前の要件整理が品質の出発点となります。
まとめ
翻訳トラブルを防ぐには、翻訳会社を選ぶだけでなく、発注前に用途、確認体制、用語や承認ルールを整理しておくことが重要です。3つの問い——この文書は何に使われるか・社内に確認者はいるか・訳語のルールは決まっているか——に答えるだけで、必要な工程と費用の設計が見えてきます。
「いい翻訳をお願いします」から「発注前に設計する」への視点転換が、翻訳品質を変えます。
参考資料
・日本規格協会「JIS Y 17100:2021 翻訳サービス―翻訳サービスの要求事項」(ISO 17100:2015, Amendment 1:2017 一致規格)https://webdesk.jsa.or.jp/books/W11M0090/(有償頒布)
・一般社団法人 日本翻訳連盟(JTF)「翻訳発注の手引き」https://www.jtf.jp/pdf/translation_order.pdf
・一般社団法人 日本翻訳連盟(JTF)「翻訳品質評価ガイドライン」第1版(2018年)https://www.jtf.jp/pdf/jtf_translation_quality_guidelines_v1.pdf






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Jun. 15, 2026