契約書の翻訳ミスは、「品質の問題」では済みません。義務と権利が逆になる、禁止事項が任意事項になる——そうした誤訳は、当事者の権利義務に関する理解を逆転させ、契約の解釈や履行、紛争対応に重大な影響を与えるおそれがあります。この記事では、契約書翻訳で特に頻出する致命的なミスを5つ取り上げ、その原因と確認ポイントを解説します。
1. よくあるケース:NDAの「禁止事項」が「許可事項」に訳されていた
契約書の翻訳で特に起きやすい、発覚が遅れるタイプのミスをご紹介します。
(以下は、翻訳時に起こり得る問題を説明するための架空のケースです)
ある企業の法務担当者が、海外取引先との秘密保持契約書(NDA)を翻訳会社に発注した。納品物を確認した担当者は「問題なさそう」と判断し、相手先に送付した。
契約締結後、社内の顧問弁護士が原文と訳文を対照したところ、“shall not disclose”(開示してはならない)という禁止規定が、「開示することができる」という許可の意味に訳されていることが判明した。原文の禁止の意味が、訳文では許可へと反転しており、秘密保持義務の範囲について、当事者間で重大な解釈の食い違いが生じるおそれがある状態だった。
契約内容の確認と修正のため、相手方との再協議が必要になり、取引の進行にも影響が出た。
文章としては自然に読めるが、原文で禁止されていた行為が、訳文では許可されているように読める内容へ変わっていた。訳文だけを読み通す確認だけでは、このような意味の反転を見落とすことがあります。原文との対照確認が重要になる理由の一つです。
2. 契約書翻訳で注意すべき重大ミス5選
契約書翻訳の品質を評価する際、契約書の意味に大きな影響を与え得るミスを5つに整理しました。いずれも「意味が通る翻訳」に潜みやすく、見落とされるリスクが高い類型です。
ミス① 否定表現の欠落
「〜してはならない(shall not)」「禁止する(is prohibited)」といった否定・禁止の表現が、訳文で抜け落ちたり肯定文に変わったりするケースです。
否定表現は文の後半に置かれることが多く、長文の中で見落とされやすいです。ニューラル機械翻訳(NMT)を対象とした研究では、否定表現の訳出性能は改善している一方、否定の過少翻訳などの誤りがなお発生し、言語ペアや翻訳方向によって精度が異なることが報告されています。これらはNMTを対象とした研究であり、現在の生成AI型翻訳ツールに結果をそのまま当てはめることはできません。
ただし、否定の有無は意味を反転させるため、使用する翻訳方式にかかわらず重点的な確認が必要です。また、否定の対象範囲が複雑な文では、どの語句に否定がかかるのかを原文と対照する必要があります。二重否定は、肯定・否定の最終的な意味を取り違えやすいため、特に注意が必要です。
ミス② shall/mayの混同
法的・規範的文書では、義務を示す表現と、許可・権限を示す表現は区別して扱われます。
ISO規格のドラフティング規範では、shall は要求事項、may は許可を示す表現として区別されています。また、カナダ司法省の法令起草ガイドでも、may は許可・権限・権利を付与する規定に用いるとされています。。しかし日本語に訳す際に「する」「できる」「してもよい」などの表現に統一されてしまうと、拘束力の有無が曖昧になります。
なお、shall 自体は多義性を理由に新規起草では避けるよう求める公的ガイドも存在します。重要なのは、契約書の各条項について義務規定か任意規定かを確認することです。
ミス③ 数値・期日の誤り
金額・日数・利率・期限などの数値は、一字違いが大きな損失につながります。「30日以内」が「13日以内」になる、「10%」が「1%」になる——数値の正確性は、訳文だけを読んでも判断しにくいため、原文との機械的・人的な対照確認が必要です。
ミス④ 条件節・例外規定の誤訳
「ただし、〜の場合を除く」「〜に限り、〜とする」といった条件節・例外規定は、契約の適用範囲を限定する重要な要素です。訳文でこの条件が省かれたり、主節と従属節の関係が逆になったりすると、契約内容そのものが変わります。
条件節や例外規定を誤ると、条項の適用範囲が変わるため、重点的な確認が必要です。
ミス⑤ 条項の脱落
段落・条番号・箇条書き項目が、訳文で丸ごと抜け落ちるケースがあります。長い文書や箇条書きの多い文書では、条項や項目が欠けていないか、項番と項目数を機械的に照合する必要があります。。項番と項目数を原文と対照することで確認できます。
3. なぜ見落とされるのか
上記のミスには、訳文だけを読んでも気づきにくく、原文との対照によって初めて発見できるものがあります。
契約書は長文・繰り返し・複雑な修飾を含む文書であり、全体の意味は通っているのに法的に重要な箇所だけが変わっていることがあります。チェック担当者が「おかしいところがないか」という視点で読んでも、見落としが起きやすい構造です。
当社では、単に訳文を読み通すだけでなく、否定、義務・許可、数値、条件節、項目の完全性をそれぞれ確認することを推奨しています。
4. 発注前・納品後の確認ポイント
契約書の翻訳を発注する際、または納品物を確認する際に確認すべき最低限のポイントです。
- 否定表現の確認:shall not / must not / prohibited など否定・禁止表現の箇所を原文と対照する
- shall / may の区別:義務規定(shall)と任意規定(may)が正確に訳し分けられているか
- 数値・期日の照合:金額・日数・利率・期限をすべて原文と一致確認する
- 条件節の完全性:例外規定・ただし書きが訳文で省かれていないか
- 項数の一致:条項・箇条書きの項目数が原文と一致しているか
なお、法務省が運営する法令外国語訳データベース(JLT)では、日本法令の英訳とStandard Legal Terms Dictionaryが公開されています。JLTの「法令翻訳の手引き」(令和8年3月改訂版)では、法令英訳において shall を避け、must / must not / may not などへ意味ごとに訳し分ける方針が示されています。日本法令向けの指針ではありますが、多義的な法的表現を意味別に訳し分ける考え方の参考例として有用です。
まとめ
契約書翻訳の重大なミスを減らすには、法務分野に対応できる翻訳者を選ぶことに加え、重点項目を原文と個別に照合する工程設計が重要です。
5つのミス類型——否定の欠落・shall/may混同・数値の誤り・条件節の誤訳・条項の脱落——を把握した上で、これらを個別に確認する工程を組み込むことが、法的な意味の変化を見落とすリスクを抑える有効な方法です。
「なんとなく読んで問題なさそう」という確認では、致命的ミスは防げません。
参考資料
・法務省「法令外国語訳データベースシステム(JLT)」https://www.japaneselawtranslation.go.jp/en/
・法務省大臣官房司法法制部「法令翻訳の手引き」令和8年3月改訂版
・ISO「Foreword — Supplementary information」(shall / may のドラフティング規範)https://www.iso.org/foreword-supplementary-information.html
・Department of Justice Canada, “Legistics — Expressing Permission, Powers or Rights” https://www.justice.gc.ca/eng/rp-pr/csj-sjc/legis-redact/legistics/p1p9.html
・Hossain et al.「It's not a Non-Issue: Negation as a Source of Error in Machine Translation」ACL Findings EMNLP(2020年)
・Tang et al.「Revisiting Negation in Neural Machine Translation」TACL(2021年)
※ Hossain et al.(2020年)・Tang et al.(2021年)はニューラル機械翻訳(NMT)を対象とした研究です。生成AIを含む現在のAI翻訳ツールへの適用については継続的な研究が進んでいます。






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Jun. 15, 2026