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コロナ危機をきっかけに “social” という単語の意味を考える|翻訳会社WIPジャパン

作成者: WIP japan|May. 21, 2020

 

この記事を書いているのは2020年の5月。世界は新型コロナウイルスによる感染症のパンデミックに見舞われており、日本も緊急事態宣言の下で外出自粛が続いています。

 

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感染症の対策が始まってから、「対人距離を確保すること」を意味するソーシャル・ディスタンスという言葉を耳にするようになりました。

 

日本の多くのメディアでは「社会的距離」という日本語訳をあてているようですが、英語の “social distance“ も日本語の「社会的距離」も、もともとは社会学の分野で用いられる用語(1)(2)。英語圏における感染症対策の分野では “social distance“ ではなく “social distancing“ が用いられ、実際に “social distance“ を使っている文章はほとんど見かけません。

 

日本ではソーシャル・ディスタンスのほうが言いやすく定着しやすかったのでしょうか。もともと社会学用語だった「社会的距離」という訳語も、前述のとおり多くのメディアは感染症対策の文脈でも用いています。

 

ただ、私がここで言いたいのは、「正しくは、ソーシャル・ディスタンスではなくソーシャル・ディスタンシングである。そして「社会的距離」は誤用だ」ということではありません。世間一般の人がソーシャル・ディスタンスという言葉を見聞きして「対人距離を確保すること」と理解するなら、私は問題ないと思っています(もちろん、日本に住む英語話者に対しての配慮は必要でしょう)。

 

翻訳者である私が “social distancing“ という言葉で気になったのは、“social“ の意味についてです。

 

social“ は “society”(社会)を形容詞化した単語。よって、“social“ というと「社会の」や「社会的(な)」という訳語が浮かびます。例えば、”social improvement“ であれば「社会の発展」、“social problem“ であれば「社会的問題」となります。

 

では ”social distancing“ はどうでしょうか。”distancing“ は「距離を置くこと」という意味ですから、”social distancing“ は「社会的に距離を置くこと」となります。しかし、これでは何に対して距離を置くのかに曖昧さを覚えます。また、「社会に対して距離を置く」と理解すると、社会と分断されてしまうような印象になり、「対人距離を確保すること」という流布している意味とはニュアンスが異なります。

 

Oxford Learner's Dictionariesで “social“ を調べてみたところ、以下のようにありました(3)

 

[only before noun] connected with activities in which people meet each other for pleasure
試訳:仕事以外の目的で人と人とが会うことを伴う活動に関連した

 

日本語で「社会」という場合、ときとして具体性がなくつかみどころのないものがイメージされます。一方、英語で “social“ という場合は、上記のとおり「人が人と会うこと」への視点があります。この視点を踏まえて ”social distancing“ の意味を考えると、「人が人と会う際の距離(=対人距離)を置くこと」だと理解できます。

 

*ただし、私と同じように ”social distancing“ と聞いて「社会と分断されてしまう」ように感じる人が多かったようで、WHOでは最近、”social distancing“ ではなく “physical distancing”(身体的距離)を用いることを推奨しているようです(4)

 

このように “social“=「社会の」「社会的(な)」と単純に置き換えてしまうと、意味が理解できない場合があります。ほかには “social connection” も、反射的に「社会のつながり」や「社会的つながり」いう訳語が浮かびますが、これもよくよく考えてみると、具体的なイメージがわかずピンとこないのではないでしょうか。

 

もう一歩踏み込んで「社会とのつながり」や、文脈によって上記辞書の「人が人と会うこと」の視点を入れ「人と人とのつながり」と訳出した方が、読み手には伝わりやすいでしょう。

 

social“ は日常的な単語であるため、見聞きした際に分かったつもりでさらりと流しがちです。確かに英和辞書の最初に掲載されている「社会の」「社会的な」という訳語で、“social“ の意味を問題なく伝えられる場合がほとんどでしょう。

 

ただし、これまで見てきたように、それらの訳語が当てはまらない場合もあります。英語と日本語は厳密な意味で、一対一対応しているものはありません。私たち翻訳者はそのことにもっと心をくばる必要がある。”social“ の意味を再考したことは、翻訳者としての心がけを振り返るいいきっかけとなりました。

 

***

 

social distancing“ のほかに “social solidarity“ という言葉も、最近よく見るようになりました(5) (6)”solidarity” は「連帯」を意味し、“social solidarity“ は「社会(の)連帯」と訳されます。

 

ここでも、“social” に「社会」という訳語を当てはめる前に、具体的な人と人を想像したい。そして、その人と人が、共通の目的をもって互いに責任を持ち力を合わせること(=solidarity)を想像したい。

 

世界が危機に陥っている現状においては、“social” の意味をあまり大きく捉え過ぎず、「社会」を構成する具体的な周囲の人に視点を移す。そして、その人と力を合わせ互いの影響に責任を持つ。

 

私たち一人一人に今求められているのは、こうした “social solidarity“ なのだと思います。